「君は孤独なのか?」
誰かが僕に聞いてくる。
ああ、僕は間違いなく孤独だ、と僕は答える。
「それでは、なぜ君は孤独なのだ?」
また聞いてくる。
社会が僕を理解しようとしないからだ、と僕は答える。いや、自分のこともいまいちよくわからない僕だけど、社会(学校)の一員になろうとして、一生懸命にインスリンも打っているし、ブドウ糖も食べているんだ。それに、僕は、1型糖尿病になりたいと望んでなったわけじゃない・・自動的に、1型糖尿病にさせられたんだ!
人生は選択の連続
Life is a series of choices.
と言われるけれど、1型糖尿病になるか、ならないかの選択肢すらぼくにはなかったんだ。そして、1型糖尿病になってから、僕は余計に孤独になった。まるで、溶岩の赤い川が流れている岩の上を1人取り残されたようだ。誰にもわからない、この孤独感は。
「じゃあ、孤独にならないようにすればいいじゃないか。」
誰かがまた言う。サマーキャンプや患者会、いたるところに同じ1型糖尿病を抱える患者さんの組織があった。もちろん、いろいろな経験談、失敗談を分かち合って、仲間を増やせる組織だと僕には思えた。けれど、それに参加してさえも、僕の孤独感は消えるとは思えなかった。だから、1型糖尿病の僕は、どこの患者会にもサマーキャンプにも行かなかった。
「どんな時に、孤独感が襲ってくるのだ?」
それはいろいろある、と僕は答えた。
ひとつは、低血糖で、持っているはずのブドウ糖がないときだ。意識が朦朧としている中、まわりには治療する薬(ぶどう糖)すらないんだ。たとえば、新宿駅でこれが起こってみろ。大勢の知らない人が歩いている中で、僕はしゃがみこむんだ。そして誰も僕に声をかけない。僕にはもう何もできることはない。しゃがみこんだ僕は、低血糖で倒れるのを待つしかないんだ・・視界がどんどん狭くなり、あたりは暗くなっていき、そして痙攣が始まるのを待つしかないんだ。
僕は死ぬ時に、こうやって死んでいくのだろうか、
と思ったことさえあるんだ。
もうひとつは社会の1型糖尿病への無理解だ
大学に入ったって、就職したって、僕には1型糖尿病という病いが漏れなくついてくるんだ。いらない通信販売のおまけのように・・
そして、新聞や雑誌にも、ときどき1型糖尿病の記事が掲載されたりしている。けれど、新聞や雑誌の単発記事では、社会の無理解を変えられそうに思えなかった。おまけに、社会のスピードは日を追うごとに、どんどん早くなるように思えるし、1型糖尿病の僕はそれに取り残されていくように感じるんだ。
僕は、こういう孤独を高校時代や大学時代に感じた。低血糖は、今でも同じような場面(雑踏の中)でも起こるし、そんなときは孤独を感じる。だから、1型糖尿病をかかえる大好きな彼氏や彼女、大切なパートナーがいるならば、あなたはコーラみたいなブドウ糖が入ったジュースとか、ブドウ糖のゼリーを事前にカバンの中にでも入れておいて、そっと、無言で、パートナーが低血糖になったら渡してあげると良いのではないだろうか。
そんなブドウ糖は、きっと低血糖の治療薬以上の、別の何かになるはずである(笑)。
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